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メモ http://www.ewoman.co.jp/winwin/120fk_second/index.html
まだ小学生の親だけどこれは読んどかないと。ヒント満載。
しかし、こんなに細切れに30ページも作らせられるWeb担当者の苦労が忍ばれるってもんだ。
この手の対談ものをWebでってのは、ほぼ日が先行者としていろいろ試してくれたと思うけど、脇の写真は要らない気がする。その分、文章をもっとちゃんと詰めて、スペースをタップリとって読み易さを追求して欲しかったなぁ。しかしこんなに何度も何度もクリックさせんな!と小一時間(ry
主人公の藤原さんも出来たWebみて、「う〜ん」と困ってるに500リクルート賭けてもいい。
あと一応、ここも要チェックかな。
http://www.yononaka.net/index.html
しかしなんでこういう教育もののページって ひらがな、フラッシュ、かわゆっぽいイラスト オンパレードなんだろうか。どっかで美的センスがショートしてるとしか思えない。
どうにも「自称育児のカリスマ」のごとく本能のママやってたんじゃぁだめだってことで片っ端から色んな育児本を読んで、わかったことがひとつ。
子供が自分に自信も持つようになる←自分が好きになる←自分の好きなとこも嫌いなとこもまるっと認める
「←」これは「そのためには」みたいな意味で読んで欲しいのねん。
んで、そのようなお子様になるためにはどうもその保護者たる親が同じ道筋を辿って「自分を好きになれ」、と。
まぁ、色んな悪いとこもコミで、まずは今の自分を認めて自分を好きになること、が必要なんだと。そして子供に対して嘘をつかないで正直になり、子供の教育(やらなんやら)がウマくいかないのは自分のせいかも?と自分を責めるなよ、と。なんかカンタンそうに言ってくれる。
アルフレッド・アドラー博士のことは全然知らなかったのでこれからちゃんと調べてみよう。
以下は、ちょっと気になったところのメモ。
133pの『「自分が嫌い」な子供に対しては、親が見方を変える』から。
自分が嫌いだから劣等感や落伍者意識をもつのではなく、劣等感や落伍者意識があるから、自分のことをだんだん好きになれなくなっているのです。
まぁ、劣等感も落伍者意識(って語感がスゴイけど)というものは自分からムクムクと湧き上がって来るものではなくて、親とか周りが与えるものであるわけですな。気をつけないとね。
157pの『親の「不安」を押し付けることを止める』から。
いや、その通り。だいたい、親である自分が自分のことだって良く判んないのにちびっこのことなんてわかんないよ。基本、「わからない存在」なんだけど「好き」というか説明抜きに全面的に悪いとこもダメなとこも認めちゃう、というのが親の仕事なんだろうなと思う。子どもは親と関係なく、秘密をもってもいいと思いますし、親が全部わかる必要もないと思います。違う体と心を持っているのですから、全部わかろうというのは、どだい無理な話です。どうしても知りたいことがあれば、聞けばいいのです。
そしてそれが出来てるかどうか?なんてのも自分が出来てると思えばイイ訳で。
なんかわかったようなわかんないようなそういう不思議な感想ですみません。
ま、とりあえず今週末はちびっこスナップにピッタリのFUJIFILMのFinePix F100fdを買いにイコー。
コーノさんのフランスの教育に比べて日本のこれはどうよ?という記事を読むちょっと前にいいタイミングでこんな本を読み終わった。
なにかっつーと「フランスで父親になる男たち」の話を日本人女性がかなり冷静に分析しているという本。
これまで、女性、つまり母親の視点のフランス絡みの本はあったけど、これは新鮮だわ。(ちなみに前に書いた記事はこれ。)
どうしても離婚率が高いのに出生率が上がっているか?なんて部分で、女性が主人公になってしまうカンタン分析本が多い中でこれはちゃんと中世からフランス革命、さらには5月革命までちゃんとさかのぼりつつ、男を軸として分析してる。聖書の話も出てくるし。
しかも現代の男性たちのインタビューやら医者、産婦人科などなどいわゆる専門家にもきっちり話を聞いている。前のこれが、ご近所さんネタばかりで、ちょっと食い足らないかった印象があるのでこっちはずいぶんと充実している。
そして話は、男性だけにとどまらずに妻としての女性、そして母親としての女性とのかかわり、最後は子どもとの関わりについてもきちんと考察していて、いや~目からウロコというかジンと来たジンと。
とりあえずそのジンと来た部分を長いけど引用する。7章「「父親学」の現在」、205pから。
赤ん坊が夜泣きする。母親はすぐに夜泣きを止めようとする。当然の反応だ。ナウリによると母親は妊娠の論理に支配されている。つまり、子どもの欲求をすべて、それも即座に満たすという論理だ。この場合、欲求というのは、食欲に代表されるような生物的な本能のことである。
母親は、子どものすべての欲求に即座に応えようとする。胎児は母親の腹の中で、空腹など感じずに、胎盤から直接栄養をもらっていた。その時、母親と胎児の間に「時間」は存在しなかった。子宮の中の時間は永遠の時間だ。そこは永遠の楽園である。
母と子は、いつまでもこの時間の存在しない楽園に住んでいたいと願う。父親はそれを阻む存在なのだ。
この世に生まれ落ちたが最後、胎児は空腹だとか、暑さや寒さだとか、常に何らかの「欠乏感」にさらされる。母親はそれを即座に満たそう、「満たされるまでの待ち時間を消そう」と躍起になる。父親は母親ほどの危機感を持たないから、いつもそこにずれが生じる。母親はしばし、このずれにイライラする。
しかし、このずれこそが大切なのだ、とナウリは父親についての古典的名著『父親のための場所』(1985,スイユ社)から近著『父親と母親』(2004、オディール・ジャコブ社)に至る著作を通して訴える。
時間というのは、死へ向かってまっしぐらに進むものだ。時間感覚の獲得は、死にゆく存在である自らを受け入れる過程でもある。母親は子宮を無限に拡大し、どこまでも子どもを包み込み、保護しようとするが、それは決して子どもの成長にとっては望ましいことではない。
何らかの欠乏の感覚があるから、子どもは泣く。その欠乏の感覚こそが、人間が人間たる所以のもので、欠乏の感覚がある種の緊張をもたらし、ほしいものに手を伸ばす動きを生む。欠乏の感覚があり、待たされる時間があるからこそ、その欠乏が満たされた時、用事は「自分」を意識する。大袈裟に言えば、それは死を克服し、自分が生きていると感じる瞬間なのである。
おとなでも、欲するものがあり、それを手に入れるために工夫する。そして、それを獲得した時、本当の満足感がある。欠乏感こそが生きている証であり、また生き甲斐を感じる瞬間であり、欲したものと自分の関係性から「個性」というのものも生まれるのだ。
子どもの欲求すべてを即座に満たそうとする過保護の母親は、時間を否定することで死を否定し、父親を否定し、子どもを満足させることと自分の快感をごっちゃにしてしまう。つまり、子どもから、その子が一個の人間として存在する可能性を奪ってしまうのだ。
と、ここまで転記してみて、Zokerさんてのはすげー父親なんじゃないかと思えてきた。
母親は、基本、子供と同化して許す存在。泣けばあやすし、腹が減ったと騒げば即座に対応してくれる。それは自分の体に痛みを感じてさするのと同じぐらいの本能的な仕草であると。対して父親は、もっとも身近な他者として対峙する存在であること。
そして子供が独占したがる母親を横取りして邪魔をするのが仕事だと。それが最初の「邪魔」の第一歩だと。ということで父親だけじゃなくて母親も、ちゃんとその時は父親のほうに「女」として向き合えと。つまり~、ちゃんとセックスしなさいよ、それって自分たちだけじゃなくて子供たちに対しても必要なのよんって。よーはそーゆーことー。
フランスでは、親のベッドルームにはそうそう入れない、というかあそこは子供が入る部屋じゃない、というふうなんだそうな。これは叩き込まれるらしい。こういうのをきっちり言ってくれると分かりやすいよなぁ。
随分前に読んだ斉藤学さんのこの本にも「父親の役目は我慢させること」って一節があって、「あぁ、おんなじだ」と。
ということでフランスの事実婚事情はそれはそれで参考になるんだけど、なによりもそういう社会というかルールを作るにはこんなに時間となんつーの英語的に言うとストラッグル(日本語で苦闘?ちょっとイメージが違うけど)が必要だったんだなと思う。
ちゃんとゲイとかの同性婚の話もカバーされていて、いや、すごい国だわ、フランス。ますます行って住んでみたくなった。いや、それ以前にこれ良い本だわ。
フランスは、パンもワインも美味しいしね。
うちのちびっこ、フランスに行かせようと思ったら、今からフランス語かなぁ。無理だろーなぁー。アート系?う~む。(謎のつぶやき)
「ウェブ汚染社会」という法政の先生が書いた新書を読んでみた。
携帯やらメールやらブログやら2chやらのネットのもろもろが若年層にワルい影響を与えているのを検証しつつ、その対策と今後の展望を示す、というまぁそうゆう本だ。この手は新鮮さがイノチなので即読んで即感想を書いてみることにする。新書のたぐいはちゃんといつ発行されていて、筆者が思う賞味期限はこれぐらいの時期までです、ぐらいの宣言が要るんじゃないかな。どっちかというと生鮮食品だと思ったほうがいいかも。
という前振りはさておき。結論から言えば、2chとかをちゃんと判って慣れている人(というか昔のBBSから知っている人)からすれば、ゴクゴク当たり前のことが書いてある。だから、2chの管理者、ひろゆきの言う、
「編集をしないことによってクオリティの低いものや、真偽不明の情報はもちろん出てくるが、それは見た人が判断したらいい。わからなければ、使わなければいい。インターネットがなくても日常生活に差し障りはないので」
は別に当たり前のことだし、だからどうということもない。ごく普通の感覚。もちろん、知らない人にとっては「えぇ〜〜〜っ!」ってことかもしれないけど。
そんな当たり前だな〜的記述の中で面白かったのが、いわゆるネットを使った犯罪の概要,章で言うと「第四章 ウェブ汚染から子どもを守るためには」の143p辺りで、匿名性をフルに活用して大人を騙す子供たちの話が出てくる。警視庁のデータによると出会い系サイトの勧誘をしたものの90%以上が女子中学生、女子高生だったんだそうな。つまり子供が大人を騙す構図。
なるほど、ステレオタイプ的に「子供は被害者」という思い込みを捨てて、ついでに犯罪の善悪みたいな社会的判断はちょっとおいておいて、この新しい道具を使うワザについてはやっぱアタマが柔らかいほうがいいんだなと直感する。
で、被害者にも大人は居るし当然子供も居る。加害者側も同じだ。筆者の先生が例えるように、ネットを泳いで行くのは自動車免許と同じと思ったほうがいいかもしれない。運転出来てもちゃんと責任が取れる歳にならないと免許を貰えないし、当然、外を運転することは出来ない。ふむ。ま、一理ありますな。
ただなんでこの本を読もうと思ったかと言うと表題の「ウェブ汚染社会」というタイトルがちょっと気に入んなかったから、それだけ。つまり大人が欲望全開で「ウマいことしてこいつらから金をふんだくってやろうぜ!」って思っているのはいつの時代でもあったわけだし、それの被害に遭う大人も子供も居た。単にそれが素早く簡単になっただけで、まるで毒ガスが蔓延しているかのように脅すのはどーかなーと。最後の章は、かなり明るく振る舞ってるけどちょっとムリがあるwww
昔は、社会通念というかおっかないオヤジとか近所のおっさんとかそういう枠がちゃんと機能していて、個人の感覚をどこまでも延長する(それこそ世界の裏側までとどきそうなぐらい)ネットのような道具がなかっただけでワルい大人は悪かったし、ひねたガキンチョだって居ただろう。つまりはそう言うことだ。道具が悪いんじゃなくて使い方が悪い。そしてその悪い使い方を直そうとマニュアル式にやってももうダメだ。大人も子供も自覚的に客観的に冷静になって個別に「これはこうしよう」とやるしかないと。ひろゆきの言う通り,別にネットが無くなったって死にはしない。
ちょっとブドウ糖がアタマに入ってなくてまとまんないけど(明日人間ドックなのでもう何も食べれないの ハァ)普通のことが普通に書いてある。ちょっと子供をこう扱え!みたいなとこはステレオタイプっぽい駆け足な気がしたけど。
もう1回だけ書いておこう、自分のために。「ウェブが社会を汚染している」のではなくて人間の欲望があからさまなっちゃっただけ。それがネットという媒体と道具によってとても簡単に現れるようになってきただけだ。子供はしっかり、欲の皮の突っ張った大人達を、ウソやゴマカシで丸め込もうとしている大人達を見通していると思うよ。
悪いものも山ほどあるけど、良いものも山ほどある。それが社会だし、人間だと思う。ネットなんてただの道具だ。
あんまり吉本さんは好きじゃないんだけど、これはイイかなって。
http://www.1101.com/nihonnokodomo/2008-04-30.html
子どもは
「親が、わかってるんだけども何も言わないな」
と、なんとなく
推察するくらいでいい
で、いま読んでる「現代思想」の中で「いじめ」と「いじめ自殺」は違うから分けて考えようてな記事を読んで、これまた考えてる。でも整理が出来ないのでちょっと寝かしておこう。
学校で習ったことで身に付いていることと言えば、「せんせは怒らせないほうが身のため」、みたいな体罰がバリバリ時代のガキンチョにしてみればそれはそれは切実な処世術。でも、それだけじゃ足んないんじゃないか?と思い付いたのはごくごく最近のこと。
大人になってから色々有ったお陰で「そういえば、キリスト教ってのはなんなの?イスラム教ってなに?」と調べて書籍を色々読んだりしました。で、気が付いたのは、「なんでもっと早く教えてくれなかったわけ?」ということ。
歴史の出来事として「宗教」が登場するのはイイとしても、じゃなんでそんなふーになっちゃうのか?ということを先ずは知識として学ぶ機会があってもバチは当んないと、今なら思う。
ということで2ch方面ではめっぽう評判の悪いアカピー新聞社(@∀@)から出ているこんなのを読んでみた。
さらに小ネタとして面白かったのは、取材のインタビューに2名で出る宗教団体はちょっとヤバイという記者の直感みたいなのが紹介されているところ。さすがに色んな人の話を聞いていて、取材の量もハンパ無いとは思うけど、コメントの順番とか組み合わせを変えるだけできっとこの正反対の結論に持ってゆくことも出来るんだろうなと思わせる出来映え。あ、そんな穿った読み方はいけないとは思いつつ。
でもいまの日本の公立学校が、いかに「宗教教育」から腰が引けてるかはよぉ〜く判った気がする。
給食食べる前の「いただきます」で手を合わせちゃあいけないなんてもう終わってる。
ちなみにフランスも学校では宗教分離らしいけど、それ以前に人権ってのがものすごい力の入れ方で教育されているのを知るとあの聖火リレーの辺りの反応の仕方もなんとなく判るってもんだ。
まだ咀嚼出来ていないので、とりあえずここまで。
「聖者は口を閉ざす」という小説。スティーブン・キングとかエルモア・レナードとかが絶賛したそうな。
(アマゾンさんだと日本語訳が出ないので、こっちで。)
話は、ニュージャージーのイケてないけどそんなに田舎でもない街に住む40代の男性の話。ストーリーはもうどうでも良いけど、麻薬やら拳銃から強盗やら窃盗やらもうアメリカの暗い面がどこ向いても口を開けて待っているような街で起こった傷害事件をその被害者の男性の幼馴染みの婦人警官が解き明かしていく、という一言で言うとそういう話。
これまた何故かとても読み終わるのに時間のかかった本だった。何故かというとその男性、レイが余りに無防備でお人好しで騙されやすくて、もう読んでるだけでイライラするような危なっかしいオトコ、だから。しかも別れた奥さんと一緒に暮らしている娘ともどうやって折り合いを付けていけばいいのかも分からず、グルグルさまよいまくり。
読んでるハシから「あぁ!もう!イライラする!なんでそんなことすんの!」って感じちゃってなかなか進まない。そして最後で待っていた衝撃の真実。もうこんなに救いの無い話も無いんだろうけど、不思議と薄明かりみたいな明るさがある。
東野圭吾じゃないけど、「人間って悲しいな」と思わずにはいられないお話。状況的にはアメリカのほうがはるかにキツいんだろうけど。
そんなイライラの連続でもググッとくるところもあるので、そこをちょっとメモ。
理解出来ないし、近づけない14歳の娘との関係を、同世代の廃人のような街の情報屋からお説教を食らうところ。
「・・・もし本心から娘さんの友人になりたいと思うのならどうすればいいかって?だったら友だちになどなるな。父親になれ。」
そして、いわばお節介でレイの事件の真相を探る婦人警官、ネリーズが、どうしてヤク中の兄貴とか凶悪な犯罪が当たり前の周りの環境に負けずに警官になったか?というところを話すところは、感動もの。そしてレイがどうしてこういう事件に巻き込まれたのか?をゆっくりゆっくり解きほぐすかのように語る。もしもこれが映画になるなら、このシーンだけで、というかこのシーンがどれだけ演じられるか、どれだけ表現出来るかだけで、この映画の評価が決まりそうなヨカン。それぐらい重要な場面。
こういうスゴイ細かい(でも大事な)部分がちゃんと描けてるところが、いいと思った。これ、是非、映画で観てみたいなぁ。
メモ。
http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/0000950470.shtml
港区のちびっこが通う小学校では、ごく普通に起立してごく普通に斉唱して、校歌も在校生がきっちり歌ってなんのほころびもありませんでしたけど何か?
日本人だけじゃなく一クラスに数人は金髪の子やら目の碧い子がいますけど。だから、普通に歌うのかな?国歌もちゃんと歌えないと他の外国人の親御さんにみっともなくて?
とりあえず宝塚神戸、終わってる。
子供の教育だけじゃなくて脳の先端技術までおせーてくれるのかと思いきや、どっちかというと教育面が多かった「脳の力こぶ」。
ただ、どうやら『「右脳」「左脳」で「だからなんとかだ」というのはどうにも変だ』というのはよくわかった。あと、脳科学者の直観として小3ぐらいまでは徹底的に詰め込み&反復練習みたいな教育法、それから後ろは自分で興味を持つものに対して、ジックリ自分で学ぶ、学ぶ気持ちが湧いてくるのを助ける、という風に切り替えたほうがいいらしいというのは納得できた。
世にはびこる「幼年期英会話もしくは英語教育」に対しても明確に「止めたほうがいい」と。そりゃそうだ、自国語がちゃんと出来上がっていないのに英語教えたってモノにはならない。
だいたい、田舎でセサミストリート観てただけで何となく英語に慣れ親しんできて、特別そんな教育受けなくてもある程度普通に喋れるという実例が目の前にあるから、出遅れるなんてことはない。それよりは、ちゃんと日本語でコミュニケーション出来るほうがよっぽど大事。これこそ実感。ま、個人差があるんで、「親がそうだから、子供もそれでいい」とまでは言わないけど。
そういう意味では、こういう人たちの意見をちゃんと取り入れて実験する勇気のある学校が増えてほしい。「ITとか使って簡単に学べることは簡単に忘れる」ってこともとっても真実だと思う。学校はコンピュータなんか*生徒用に*導入しなくても良いと。
引き倒して付箋やら下線やらでボロボロになった辞書抱えてるほうが、電子辞書使えるよりよっぽどかっこいい。グーグル先生を使い倒す10歳児よりもはるかに。
低学年向けの国語辞典、買っとこうかなぁ。赤ペンはこないだ買ったし。大人用と2冊買って引き比べなんてのも面白いかもね。
というところで、Vox経由のAmazonさんのとこから「国語辞典」で検索すると107pもある・・・・・・・。
どなたかお勧めの国語辞典がある方は教えてください。(てなことは国語辞典には書いてないのね。自分で調べよー!)
2/2にnebulaさんから頂いた「非属の才能」という本を朝とお昼の時間に読んでみた。
学校やら組織にしがみついて他人の目を気にしながら、列を乱さないように生きる、という選択肢に疑問を投げつけ、引きこもりの若者(もう若者だけじゃないけど)に対して「それでいいんだってば!」と応援してくれる、という本。
「引きこもりはさなぎ」だっていうくだりは河合隼雄さんのコメントを引用していてなるほどなぁと。先生、良いこと言うな、やっぱり。
前に書いた記事で「オトナになるってことはつまり、自分の我を抑えて社会に適合するってことらしい」ということを別の本からの引用で書いてみた。それは本当にそうだとおもうんだけど、この本の様に「学校も嘘ばかり」「組織に馴染んでも才能は伸びないよ」というのもある意味、その通り。ただ、「だから(北海道とかに)プチ失踪してみよう!」というのはそれ自体が既にマニュアル化してると思うぞ。>山田さん。
問題は、自分の判断能力として「あ、これはなんかやる意味無い」っていうことと「うぉ!これはやっちゃあいけないよな」っていう自分なりのしきい値を持てるか、ってことだろう。そしてそれはマニュアルにも法律にも書いてない。自分で試行錯誤しながら獲得しないといけないこの世の中で一人一人が生きてゆくとっても大事なモノなのだろう。それを持つことが人間が生きていく最大の目的なんだと思う。「幸せ」っつーのは、要は状態のことなので目的じゃないのね。
だから、自分で判断できる、いろんな人と関わりながら生きていける、そういう風に子供が育つように見守る、というのが親の仕事だと思う。守るじゃなくて見守る、怪我するまで手は出さない。怪我したら面倒みてやるよ、と。
真ん中ぐらいにでてくる一輪車の練習に出かける孫娘に声をかけるおばあちゃんの一言がそれを見事に表している気がするなぁ。
「いっぱい転んできな」
そして著者の山田さんのこの一行。
子供の未来は、「親が子供の失敗をどれだけ許せるかで決まる」(74p)
ということで、「これをR画伯の親であるyasuyukiに読ましとこう!」って思ってくれたnebulaさん(もう師匠と呼ばせていただきます!)に感謝。